並木路子の死因と歌手としての評価。晩年はどうだった?「リンゴの唄」の誕生秘話は?
出典:[amazon]スター☆デラックス 並木路子
歌手の並木路子さんを色々な角度から掘り下げていきます。
目次
プロフィール
- 芸名 並木路子(本名 南郷 庸子)
- 生年月日 1921年9月30日
- 出身地 東京都 台東区 浅草
- カテゴリー 歌手
- 所属レコード会社 コロムビアレコード
死因と歌手としての評価。晩年はどうだった?「リンゴの唄」の誕生秘話は?
並木路子さんの死因は心筋梗塞による死去です。2001年4月7日で入浴中の事故でした。近年ヒートショックと言われており、年間一万九千人ほどが他界しています。原因は日常過ごす部屋より浴室や脱衣所が寒いため血圧の急上昇を招いてしまうためこのような事故が起こってしまいます。
45才ぐらいから増え始め、その後年齢が上がる度にリスクが高くなっていきます。対処法としては入浴前に浴室と脱衣所を暖めておくと防ぐことが出来ます。並木路子さんは、この死去の翌日も仕事が入っていたと言うことなので、予期せぬ不慮の事故です。
さて、歌手としての評価ですが、インターネット上調べてみましたが戦後始めた歌謡曲を歌った歌手と言う事で世間を元気づけるための一躍を買ったと考えて良いと思います。それが後に触れる『リンゴの唄』です。
また、松竹少女歌劇団の4期生でもあったという事から歌の上手さは既に証明されていたと言っても過言ではありません。戦前戦後は物が無い時代なので、何をやるにも大変な時代でした。
そのため、歌手になるための試験も相当な難関では無かったかと考えています。それをくぐり抜け、歌手になったと考えています。在籍期間は、1936年から1945年までで、その間に松竹映画『そよかぜ』に主演するなど唄に女優に活躍したため現在に例えるとマルチタレントの走りと考えても良いと思います。
少し調べただけでも、物の無い時代にここまで活躍が出来た事は凄いと感じるので評価はかなり高いのでは無いかと思います。
続いては、晩年どんな仕事をしていたのかについてです。 1995年に発生した阪神大震災の時に、慰問に訪れたという記録が残っているので体が元気であればどこへでも、行って歌うというような活動をしていたようですし、亡くなる翌日にも仕事が入っていたので全く活動休止などはしておらず仕事の話があれば積極的に受けたようです。
ここからは並木路子さんの楽曲「リンゴの唄」について書いて行きます。並木路子さんにとってデビューシングルで有り、冒頭にも書きましたが戦後初の歌謡曲と言われています。また、同名の映画も制作されましたが、映画よりも挿入歌の方が売れてしまうと言う逆転現象が起きてしまうほどでした。
この曲がヒットした頃は24才で日本中を元気づけたと言われていますが、並木路子さん本人は当時そんなに明るくなんて慣れない心境にいました。戦争で両親と次兄を亡くしており、母親は東京大空襲で一緒に逃げたにもかかわらず並木路子さんだけが助かったと言う事で罪悪感を抱いて生き続けていました。
そんな複雑な思いとは裏腹に楽曲は売れて、戦時下、戦後でも『リンゴの唄』は流れ続けていました。そのため復興のシンボルと言っても過言ではありません。
作詞は、サトウハチロー、作曲、万城目正で年代を超えて発売され続けました。 1946年、1971年、1992年、1995年と様々にバージョンを変えながら歌い継がれてきています。今後もどこかのアイドルグループが歌う可能性はあります。現在混沌としているためそんな可能性は十分にあります。
まとめ
今回は並木路子さんを掘り下げてきましたが、体が元気だったら今でも歌い続けていたのでは無いかと考えています。それ位バイタリティーがあると考えてしまいますね。大抵昔の芸能人は体が悪くなってしまい一線を退くという残念な展開に陥ってしまいます。
それを避けるためには、健康維持が大切ですが、若い頃に無理してしまうと年を重ねてから一気にそれが体に表れてしまいます。ある程度無理をしないことが重要ですね。
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