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藤圭子の生涯と歌手としての評価。「新宿の女」「圭子の夢は夜ひらく」「はしご酒」の誕生秘話は?

出典:[amazon]藤圭子 ベスト DQCL-2101

1960年代から歌手活動をはじめ、2度結婚し歌手の宇多田ヒカルを生み育て自身も歌手として多数の楽曲を持っている藤圭子さんを色々な角度から掘り下げて行きます。

プロフィール

  • 芸名 藤圭子(本名 阿部 純子)
  • 生年月日 1951年7月5日
  • 出身地 岩手県一関市
  • カテゴリー 歌手
  • 活動期間 1969年~1998年

生涯と歌手としての評価。「新宿の女」「圭子の夢は夜ひらく」「はしご酒」の誕生秘話は?

浪曲師夫妻の家に生まれ、両親の地方公演にも同行し自身も歌うなど家庭を支えました。藤圭子さん自身は勉強自体が好きで高校へ行く学力は充分に備わっていましたが、家庭の事情で高校進学を断念しました。

その後、岩見沢で行われた雪祭りのステージで歌う姿が作曲家八洲秀章の目に止りレッスンを受けながらデビューのチャンスを掴むためオーディションを受けましたが、落選が続きここではデビューに至ることはありませんでした。

家計を支えるために、新宿で母と共に流しをしているところを作詞家石坂まさを氏と知り合い自宅に住み込みでレッスンを受ける日々が続き後の紹介する『新宿の女』でデビューを飾りました。

多数のヒット曲を所持しておりシングル枚数は48枚、アルバム43枚をリリースしています。また、ハスキーボイスと言う特徴を持っていますが、ポリープの手術を受けたことによりその良さが消えたと悩んで歌手引退を考えていた節もあります。  

プライベートでは前川清氏と最初の結婚。すれ違いが理由でわずか1年で離婚、芸能界も一度引退し、芸名も藤圭以子に改名し、電撃復帰しています。その後 宇多田照實氏と結婚と再婚を繰り返しました。また、この時後の宇多田ヒカルが誕生しています。

宇多田ヒカルさんには才能があると信じて、幼い頃から関係各位に宇多田ヒカルが歌ったデモテープを聴かせ、如何に才能があるかのプレゼンを行うなど並々ならぬ情熱を傾けていました。

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歌手としては、紅白歌合戦5回出場。ミリオンセラー1枚を持つスター歌手であったことは間違いはない事実であり、歌も相当上手かったと思われます。しかし、金銭トラブルで娘とは絶縁状態になるなど壮絶な人生を過ごしました。

最後は、2013年自殺を図り他界しました。ここからは藤圭子さんの楽曲「新宿の女」「圭子の夢は夜ひらく」「はしご酒」について書いて行きます。『新宿の女』は、藤圭子さんにとってデビューシングルに当ります。

レコード売上累積は88万枚、新宿を舞台にしたご当地ソングの一つと言われており、オリコンチャートには1970年1月になってからベストテン入り、その後4枚のシングルをリリースし実に42週間に渡りヒットチャートに残り続けました。

新宿区・西向天神社に新宿の女の歌碑が存在し、『盛り場流し唄 新宿の女』と言う映画も制作されました。『圭子の夢は夜ひらく』は、77万枚の売上を記録(一説には120万枚とも言われています。)しており紅白歌合戦にも初出場を果した楽曲です。

五木ひろしさんなどの様々な歌手にカバーされて、歌い継がれています。また、この曲を作詞した石坂まさをさんの作詞家生活30年を記念して新宿花園神社に歌碑が存在しています。

『はしご酒』については、東京都の下町の地名が沢山出てくるので東京のご当地ソングの一つで、この曲が最後の紅白歌合戦出場曲でありその後紅白からは遠ざかってしまう事になります。

まとめ

今回は藤圭子さんを掘り下げてきましたが、かなり壮絶な人生を過ごしているという感じは否めません。人生の幕を閉じたのが自殺と言うだけで何があったのか?と勘ぐりたくもなります。

しかしながら、歌手として生きて行きたいと言う欲求が強い人であったという事は言えます。紅白歌合戦に強い執着を持っているという事もあり、出場出来ると回りから言われていて落選した際には体調を崩してしまうといったエピソードでもその一端が窺えます。

ご自身は亡くなってしまいましたが、藤圭子さんが遺した歌や娘である宇多田ヒカルさんの活躍を我々は楽しんでいきたいと思います。

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