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演歌歌手春日八郎の死因と歌手としての評価。奥さんや娘は?代表曲「別れの一本杉」「お富さん」の誕生秘話は?

出典:[amazon]永久保存盤 春日八郎 特選集

歌手の春日八郎さんを色々な角度から掘り下げて行きます。

プロフィール

  • 芸名 春日八郎 (本名 渡部実)
  • 生年月日 1924年10月9日
  • 出身地 福島県 河沼郡会津坂下町
  • カテゴリー 歌手
  • 活動期間 1948年~1991年
  • 所属レコード会社 キングレコード
  • 所属事務所 春日プロモーション

死因と歌手としての評価。奥さんや娘は?代表曲「別れの一本杉」「お富さん」の誕生秘話は?

1991年10月22日、それは肝硬変と心肺不全により都内の病院で他界。67歳でした。歌手としての評価については、演歌界のパイオニア的存在です。しかし、デビュー前には、後に奥さんとなるひとのお腹に自分の子供がいたため歌手を諦めようとしたと言う事実もあります。

歌手ではなく新聞社に入社しようと考えていたようですが奥さんに反対されて断念し歌手を目指すことになりました。その後、春日八郎さんの師匠が新曲『赤いランプの終列車』を作曲しキングレコードに売り込みを掛けました。

しかし、過去の素行の悪さが問題視されましたが何とかクリアーしてデビューにこぎ着ける事に成功しました。しかし、レコード会社の見立てではこの曲はあまりヒットしないのでは無いかと考えていたようでした。

また芸名も岡晴夫さんのような歌手になれと言うことと、岡晴夫さん宅で春日大明神の神棚を目にしたことから春日と名付け、運が開けるようにと八を入れて春日八郎の芸名は完成しました。因みに名付け親は藤間哲郎さんでした。

デビュー曲は発売当初から大ヒットにはなりませんでしたが名古屋から売れ出して気がついてみれば50万枚の大ヒットを記録しました。それまでのヒット曲とは異なる望郷歌謡をヒットさせ演歌に新風を吹き込む事に成功しました。

後に紹介する「別れの一本杉」「お富さん」がヒットし歌手としての盤石な地位を気付くことに成功しました。また、この時代には珍しく個人事務所を設立したことでも知られています。

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紅白歌合戦にも21回出場し、他界するまでにレコーディングした曲数は1000曲越えレコード売上も7000万枚を超えています。物の無い昭和の時代にどれだけの聴衆を魅了してきたのか解ると思います。

奥さんについては春日八郎さんが26歳の時、桧坂恵子さんと事実上の結婚をし、後に正式に結婚しています。冒頭にも書きましたがデビューする前に既にお腹に命を宿していたため自然な流れでそうなったと言うことです。

子供について調べましたが、詳細情報がありません。息子さんがいるという説もありますが、それも定かではありません。しかしながら長女の名前だけが判明しており渡部修代さんという長女がいます。

ここからは、春日八郎さんの楽曲「別れの一本杉」「お富さん」について書いて行きます。「別れの一本杉」作詞、高野公男、作曲、船村徹のコンビで製作されましたが、この2人は大学時代からの友人でヒット曲が出ずに悶々とした日々を過ごしていました。

そのような状況下でキングレコードの春日八郎さんのところに出向き、選ばれたのがこの曲でした。ビゼーの歌劇「カルメン」のハバネラのリズムをヒントに作曲され50万枚のヒットを記録しました。

また作詞を担当した高野公男氏が結核を患いこの曲が発表された翌年に他界してしまうと言う想いで深い曲となっています。「お富さん」は当初、岡晴夫さんが歌唱予定でしたが他者に移籍し急遽春日八郎さんが歌う事になった運命の楽曲です。

リリースから僅かな期間で40万枚のセールスを記録、最終的には125万枚の売上を記録しました。一時「お富さんは吹き込みたくなかった」とラジオ番組で発言し物議を醸してしまい芸能界から干され掛けました。

当時はわいせつなお座敷ソングが流行っており、それに変わるような軽い調子の替え歌にしやすい物を狙って曲を作りました。変則的なリズムの多用と沖縄音楽のテイストを盛り込んでこの曲は完成しています。

作詞、山崎正、作曲、渡久地政信のコンビで製作された楽曲でした。後にハウスバージョンも製作されそれも20万枚の売上を記録しています。

まとめ

今回は春日八郎さんを掘り下げてきましたが、色々な意味で伝説的な歌手である事は今回の記事を書いてわかりました。

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