気になる演歌歌手や曲の魅力を紹介するサイト。

岡本敦郎の死因と歌手としての評価。「高原列車は行く」「白い花の咲く頃」の誕生秘話は?

出典:[amazon](決定盤) 岡本敦郎 永遠の歌声

スポンサーリンク

歌手の岡本敦郎さんを色々な角度から掘り下げて行きます。

プロフィール

  • 芸名 岡本敦郎 (本名 尾加一夫)
  • 生年月日 1924年12月25日
  • 出身地 北海道 小樽市
  • カテゴリー 歌手
  • 活動期間 1946年 ~ 2012年
  • 所属レコード会社 日本コロムビア

死因と歌手としての評価。「高原列車は行く」「白い花の咲く頃」の誕生秘話は?

死因に関しては、2012年12月28日脳梗塞で死去しました。年齢は88歳でした。歌手としての評価については、現在の武蔵野音楽大学を卒業しており、NHKのラジオ番組ラジオ歌謡という番組でホームソング「朝はどこから」でデビューを飾っています。

この当時は、放送局に出演するだけでもオーディションがあって合格しないと出演も出来ない時代ですし、当然レコード会社も同様です。また、レコード会社で歌をレコーディングする際も何回も取り直すことが出来ないので歌でさえも一発撮りを求められる時代でした。

そんな厳しい時代を生き抜いてきた歌手なので、音程も正確ですし歌う姿もスーツ姿で直立不動という昔の歌手にはありがちなスタイルです。今の時代なら、動きのバリエーションが少なくて面白みを感じないと思うかもしれませんが当時はこれがスタンダードでした。

単なる歌手として活躍したわけではなく、音楽大学で学んだ知識を活かし音楽教師として活動していたこともありますので、歌手としては相当な歌の上手さと深い音楽知識があったと思います。

過去の実績を振り返ると紅白歌合戦に7回出場しており、代表曲も4曲もありますが、この他複数の楽曲を所有しています。そのためその時代の活躍を見てきた人は岡本敦郎さんを高く評価していると思われます。

ここからは代表曲「高原列車は行く」「白い花の咲く頃」について書いてきます。「高原列車は行く」は、作詞の丘さんが少年時代病弱で現在の沼尻軽便鉄道に乗ったことを思い出し歌詞を書きました。

スポンサーリンク

作曲の古関さんがスイスの高原鉄道をイメージして曲を書いて完成させたという経緯を持っています。紅白歌合戦にも出場し歌唱したことと当時出演していた番組ラジオ歌謡で歌唱したこともありヒット曲となりました。

代表曲の一つに数えられます。続いては「白い花の咲く頃」について書いて行きます。1950年ラジオ歌謡という番組内で紹介され岡本敦郎さんが歌いヒット曲となり代表曲の一つと考えられています。

また、この曲を菅原洋一、水原弘、椎名林檎さんなどがカバーしており各世代に知られている楽曲となっています。今後も色々な世代の歌手にカバーされていくことになる楽曲だと思われます。

まとめ

今の時代でも歌手になろうとしたら、事務所やレコード会社にデモ音源を送り聞いて貰う事で興味を持って貰いそこから内容が良ければ、事務所や音楽事務所と契約しレッスンを受けてやっとデビューすると言うことになります。

早くても1年位デビューするまで掛ります。それでも歌手になりたいと思った瞬間に行動すればデビュー出来る確率は昔よりも格段に上がったような気がします。それにいちいち音楽事務所やレコード会社でのデビューを目指さなくともそれぞれの表現媒体から始めることも出来るようになりました。

それだけ世の中に出るというのが昔のと比べて簡単になりましたが、誰でも始められる分目立つことつまりバズる事が難しい時代となりました。しかし、ミュージシャンになりたい、歌手になりたいという人には良い時代になりました。

しかし昔、歌手になろうと思ったら相当な苦難の道が待ち受けています。レコーディングも今のように簡単に演奏箇所や歌唱部分を指一つで変更出来るわけではなく機材や記録媒体も現在と比べると相当高いので失敗は許されません。

もし失敗した際は、全てやり直しとなってしまうので簡単にレコーディングもできませんし、歌手にもある程度の緊張感が求められていました。まず、一発撮りで歌を撮れることや
正確に歌う事が求められていました。

それをクリア出来た人が歌手となれる厳しい時代を生きてきたという事になります。

👉〔amazon〕岡本敦郎のCDはこちら。

関連記事

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)