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赤坂小梅の死因と歌手としての評価。「おてもやん」「黒田節」「炭坑節」の誕生秘話は?

出典:[amazon]音故知新 昭和の名歌手 赤坂小梅

芸者から歌手へとなって一時代を彩った赤坂小梅さんを掘り下げて行きます。

プロフィール

  • 芸名 赤坂小梅 ( 本名 向山 コウメ)
  • 生年月日 1906年4月20日
  • 活動期間 1920年~1981年
  • 所属レコード会社 日本コロムビア

死因と歌手としての評価。「おてもやん」「黒田節」「炭坑節」の誕生秘話は?

死因については、1992年1月17日、心不全のため千葉県鴨川市の病院で他界しました。享年85歳でした。病院に入院されていたと言うことですので元々病気を患っていた可能性も否定出来ません。

歌手としての評価は、元々芸者でしたが歌が上手くお座敷で人気を博していました。歌が上手くプロの歌手としてレコードデビューしたというパイオニア的な存在の人です。

また、お座敷が跳ねたあと現在の韓国に舟で出掛けるなどの逸話を持っています。お座敷で民謡を歌っていたこともあってリリースしたレコードは民謡が多く赤坂小梅さんが歌う事によって世間がその民謡の存在に気付くことが多くそれがヒットに結び付く強運の持ち主です。

ここからは赤坂小梅さんの楽曲「おてもやん」「黒田節」「炭坑節」について書いて行きます。『おてもやん』については熊本甚句という花柳界の歌で実在するモデル富永チモさんで作詞・作曲は踊りと歌の師匠永田イネさんでした。

富永チモの恋模様を歌にした物で、その人物には天然痘という病気の後遺症があったとされていて、1935年に赤坂小梅さんによってレコード化されて日本全国に知られるようになりました。

1950年に再レコーディングし、累計で30万枚の売上を記録しています。また、紅白歌合戦で歌唱したことがあります。続いては「黒田節」福岡藩の武士たちに歌われていたものが日本全国に広まり、雅楽の越天楽のメロディーにさまざまな歌詞を当てはめて歌う越天楽今様が元です。

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昭和初期に複数の人間によりレコード化されて、その中に赤坂小梅さんも入っていました。当初のタイトルは黒田武士というタイトルでレコーディングされ戦時中のため歌詞は攻撃的な物で戦意を煽る物でした。

戦後は黒田節とタイトルを変更し、再レコーディングされて発売されました。赤坂小梅さんの黒田節なのか?黒田節の小梅なのかの議論が起きるほどでした。また、平尾昌晃さんが自身の作品『好きなんだ』のB面でカバー、シャ乱Qもズルイ女のカップリングでカバーしています。

「炭坑節」は、戦前のお座敷歌のレコードが発売されてから東京で炭坑節が流行りました。その後様々な変化を繰り返し現在盆踊りでも炭坑節が歌われるようになりました。1948年に様々なレコード会社の歌手がこの曲をレコーディングし赤坂小梅さんも発売しお座敷歌の節回しで歌い、他の歌手は流行り歌の節回しで歌うという差別化を図りました。

まとめ

今回は赤坂小梅さんを掘り下げてきましたが破天荒な芸者というイメージがありますが、当時の本人からしたら普通のことだったと言う事かもしれません。しかしながら当時の社会情勢から考えると少しはみ出した人というイメージがあります。

芸は身を助けると言う事を考えるとまさにその通りで、自分の意思で芸者となって歌が上手かったのでお座敷で人気者となってその後、芸能界に躍り出ていくわけですが、お座敷で鍛えた度胸と世間が知らないお座敷歌をアピールしたと言う功績はとても大きいです。

現在も花柳界という物は存在しますが、時代を重ねる毎に勢いを失っており徐々に衰退する業界の一つと言っても過言ではありません。東京だと神楽坂、新橋、赤坂、浅草、向島、大阪だと新町、堀江、北新地、京都は先斗町などがあります。

地域によっては盛り上がっているところもありますが、遊び方というのが解らないのでなかなか盛り上がっていかないという可能性があります。元々閉鎖的な場所で一元の客はお断りと言うところもまだまだ沢山あり今日遊びたいから行こうと言うわけにはいかない世界です。

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