芸者歌手市丸の死因と歌手としての評価。結婚した夫は?「花嫁東京」「ちゃっきり節」「「三味線ブギウギ」の誕生秘話は?
出典:[amazon]日本の流行歌スターたち(15) 市丸 天龍下れば~三味線ブギウギ
この記事では芸者歌手の市丸さんを掘り下げ、歌手としての評判、結婚した夫、リリースした歌についても触れて行きます。
目次
プロフィール
- 芸名 市丸 (本名 後藤 まつゑ)
- 生年月日 1906年7月16日
- 出身地 長野県 松本市
- カテゴリー 歌手・芸者・三味線奏者
- 所属レコード会社 ビクター音楽産業
- 活動期間 1931年~1996年
死因と歌手としての評価。結婚した夫は?「花嫁東京」「ちゃっきり節」「「三味線ブギウギ」の誕生秘話は?
1997年2月7日呼吸不全で他界しました。享年90歳でした。生涯現役が口癖だったと言う事から、年齢がいくつになろうと本人は舞台に立つことを希望していたと考えられていますし、亡くなる前年にも舞台に立っています。
歌手としての評価は他界するまで1,500曲以上レコーディングしたとされています。当時芸者という職業の立ち位置は現在で言うモデルみたいな扱いを受けておりお座敷にあがりますが、レコードも出すような多方面に向けた活躍をしています。
そのため顔が美形で芸事が得意なら、人の口コミで人気を獲得し芸能界に進出してくるという事も出来たようです。またお座敷も人気がありすぎて一晩に10件熟したこともあると言う伝説もあります。
歌手としてはビクターレコードに在籍し、同会社に在籍していた小唄勝太郎とライバル関係になっており、犬猿の仲だったとも言われています。歌唱ジャンルもお座敷歌だけではなくジャズの要素も盛り込んだブギを歌うなど歌手としての幅は広かったと言えます。
結婚については、生涯独り身を貫いたとされており正式に結婚という形を取っては居ません。しかしながら近衛文麿の妾と言われており、愛人だったので結婚は出来なかったのでは無いかと考えられます。
芸者が芸者として生きて行くには、身元引き受け人という人が必要でその人を裏切るような真似は出来なかったためそういうスタンスを取るしかなかったと考えられます。それがなければ普通に結婚して引退していたかもしれません。
ここからは芸者歌手市丸「花嫁東京」「ちゃっきり節」「「三味線ブギウギ」について書いて行きます。
『花嫁東京』は、1931年の作品でデビュー曲に当りますが、詳細なセールスデータはありません。『ちゃっきり節』は、同年の作品で静岡鉄道のコマーシャルソングとして制作されました。
既に新しい民謡の形として知られていたちゃっきり節を市丸が歌う事によって一気に知名度が上昇、発売すると全国的な大ヒットとなり、歌手としての順調なスタートを切りました。『三味線ブギウギ』は、服部良一氏によってブギウギの要素を組み込んだ曲を制作しブレイクしました。
ヒットはしたようですが、具体的なセールスデータはありません。しかしながら新たな挑戦をした歌手の一人と言う事は言えます。
まとめ
今回は芸者歌手の市丸さんを掘り下げてきましたが、昭和の物の無い時代でレコーディングした曲数が1500曲を超えていることにびっくりしました。全ての楽曲がリリースされているか否かは不明です。
しかしながら意外な曲をレコーディングしている可能性も否定は出来ません。こう言った歌手の場合ある意味貴重な歴史的資料になるため音源が発見されたら音源化する事をお薦めしたいです。
プライベートでは芸者と歌手という二足のわらじを履いた活動をしていましたが生涯独身を貫いたと言われています。しかしながら愛人関係にあったとされており、その関係が切れるまで結婚という形を取るとトラブルになる事を避けたことと相手のことが好きだったのでしょう。
芸者として舞台に立つことを生涯の目標としており、他界する直前まで舞台に立っていたことで生涯現役を達成できたと考えますが、本人はもっと長く舞台に立ち続けたかったと考えられます。
今後芸者の世界からこう言った形の人は出てこない可能性があります。
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