演歌歌手村田英雄の死因と歌手としての評価。「王将」「無法松の一生」の誕生秘話は?
出典:[amazon]決定版 全曲集 村田英雄 GES-14816
浪曲師から演歌歌手に転身をした村田英雄さんを色々な角度から掘り下げて行きます。
目次
プロフィール
- 芸名 村田英雄(他にも複数の芸名があります。)(本名 梶山勇)
- 生年月日 1929年1月17日
- カテゴリー 浪曲師 演歌歌手 俳優
- 活動期間 1958年~2002年
死因と歌手としての評価。「王将」「無法松の一生」の誕生秘話は?
死因については、肺炎と発表され没日は2002年6月13日でした。1973年に糖尿病を患い1年間の活動休止を余儀なくされてしまったのをきっかけに糖尿病を抱えながらの歌手活動となりました。
糖尿病は、体内で糖を分解するためのインスリンが分泌されているわけですが、体内に糖が増えすぎてしまい分解できなくなる病気です。発症当初は自覚症状がないので進行していきます。
疲労感や食事をしていないのに、痩せる。のどの渇きなどの症状がで始めると相当進んでいると言う事になります。そうなった場合は医療機関を受診して医師の指示を仰ぎながら糖をコントロールして行く必要があります。
一度発症してしまうと、完治することは無く一生を掛けて付き合っていく病気となります。村田英雄さんも発症後足を切断したという話も聞いたことがありますし、人によっては失明するケースもあります。
年齢は関係なく誰でも掛る可能性がある病気です。糖尿病の話はここまでとして村田英雄さんの歌手としての評価について書いていきます。若かりし頃浪曲師として第6回読売賞新作浪曲競演会で優勝した事と2004年5月に記念館をオープンしたので地元の佐賀県では相当な評価を得ていたと考えて良いと思います。
後に紹介する楽曲の『王将』が300万枚の売上を記録しており、賞と言うよりも世の中の庶民の記憶に残るタイプの歌手であったと考えて良さそうです。芸術家と歌手は他界してから評価されて国民栄誉賞などを貰えることもあるのですが、村田英雄さんの場合はそうならなかったようです。
その他ではビートたけしのオールナイトニッポン内で村田英雄さんをネタ元としてコーナーが出来るなどしたため、ラジオのリスナーには人気があり実際に番組にもサプライズ登場したことがあります。
ここからは村田英雄さんの楽曲、「王将」「無法松の一生」について書いてきます。「王将」は村田英雄さん史上最大のヒット曲となりました。上記にも売上枚数を書きましたが、発売当時で150万枚、累計で300万枚を記録しています。
この楽曲で村田英雄さんの人気を決定づけたと言われています。このシングルがリリースされるまで村田英雄さんはヒットシングルが無く、ヒット曲が必要となっていました。当時の村田英雄さんのディレクターが作詞家の西条八十宅を訪れたが回手貰う事が出来ず、後に村田英雄さん自身が家に通い詰める形でやっと作詞をして貰う事が出来た作品です。
その後、作曲家の船村徹さんが曲を付けて完成しました。この曲にはモデルがいて関西を拠点に活動していた棋士の坂田三吉氏をモデルにしたと言うことです。結果として王将=村田英雄というイメージがつく楽曲となりました。
「無法松の一生」は、1958年7月にリリースされた楽曲で有り、元々村田英雄さんは浪曲師で有り、口上を聞いた古賀政男さんが村田英雄さんを歌手として売り出しました。村田英雄さんの代表曲のひとつとなります。
まとめ
今回調べて解ったことは村田英雄=演歌歌手というイメージを抱いていましたが、スタートは浪曲師、その後見いだされて演歌歌手に転身しました。王将がヒット曲ですが、若い頃から糖尿病を患っており晩年色々な合併症を併発して歌手活動も危ぶまれる展開となりました。
少しどこかが痛くても、行動を制限したくなる物なので糖尿病を抱えていたと言う事はこちらが思っているより相当厳しい歌手活動を強いられた可能性が高く、辛い中での歌手活動とも言えます。
昭和の大スターで有り、もうこのようなタイプの歌手は出てこないと思われますね。
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