竜鉄也の死因と歌手としての評価。失明の理由や「奥飛騨慕情」「哀愁の高山」の誕生秘話は?
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現在は他界されてしまった竜鉄也さんを色々な角度から掘り下げていきます。
目次
プロフィール
- 芸名 竜 鉄也 (本名 田村 鐵之助 )
- 生年月日 1936年1月1日
- 出身地 奈良県吉野郡
- カテゴリー 歌手
- 活動開始 1980年
死因と歌手としての評価。失明の理由や「奥飛騨慕情」「哀愁の高山」の誕生秘話は?
死因についてはくも膜下出血と発表されており、自宅がある岐阜県高山市市内の病院で死去しました。74才でした。歌手としては遅咲きという言い方が正しく、40才ぐらいまで流しの仕事で生計を立てており、奥さんとも流しの仕事で知り合い結婚まで至りました。
歌手としての評価は、流しをやっているため歌い込んでおり哀愁が刻まれていました。そのため、長期間に渡りヒットが出た際も一日に多くの場所で歌ってもへたらない喉を作ったと思われます。
売上も100万枚を超えているし、紅白歌合戦にも出場していることから歌手として短期間でありながら、一時代を築き世間にその名前を刻んだことは間違いありません。世に言う一発屋と言う奴かもしれません。
しかし、一発当てると言うだけでも凄いことだと考えて下さい。その一発さえも当たらない人もいて、色々と模索しているわけですから、それだけ運と努力で何かを掴んだと言えると思います。
さて、失明の理由ですが子供の頃に患ったはしかが原因で中学二年生の時に失明し、その後手術で一旦少し復活した物の、26才で再び失明してしまいました。そのためマッサージ師の仕事をするため勉強に励み、同時に音楽の勉強もしていました。
ここからは、竜鉄也の楽曲「奥飛騨慕情」「哀愁の高山」について書いて行きます。「奥飛騨慕情」1980年6月25日リリース、作詞作曲は竜鉄也さん自身。奥飛騨温泉郷の新平湯温泉に仕事で長期滞在した際に雨が続いておりその情景を歌詞に認めたという事です。
地元の高山に帰って、流しのレパートリーに入れて歌い始めると聞いた人からの評判が上々で、実費で制作費用を捻出し1000枚をプレスしてリリースしました。しかし、売りさばくことは出来ましたがそれ以上のヒットにはなりませんでした。
そこで、上記に書いた奥さんと知り合いスナックを開店し、その場所で作詞家の喜多条忠さんが歌声を聞き、どうしても世の中に出したいという事でレコーディングディレクターだった和田弘さんの力を借りてトリオレコードから世の中にこの曲を贈り出すことが出来ました。
当時レコーディングディレクターだった和田弘氏が徳間を辞めて独立し、ベストフレンドという会社を作り、ようやくレコード発売することが出来たということです。続いては、「哀愁の高山」は1981年6月16日発売。
テレビ朝日の番組で、「哀愁の高山」を取り上げる話が持ち上がり急遽リリースされる形となりました。実は同年4月に『軸の女』という曲が、リリースされましたが、僅か短期間で2曲をリリースしたという形になりました。
この曲の作詞、作曲も竜鉄也さん自身です。歌詞は岐阜の高山市内で流しをやっていた竜鉄也さんにしか書けない詩の世界が展開されており、どこかにもある歌では無い竜鉄也にしか描けない歌に仕上がっています。
まとめ
今回は竜鉄也さんを取り上げてきましたが、苦難を抱えながらヒット曲を導き出したことは凄いことだと思います。元々歌が上手いということが合ってそれを伸ばし歌い続ける事で実を結んだという事だと思います。
また、今回の記事で改めて感じた事は人と人の繋がりはとても大切であるという事です。それが無ければ、「奥飛騨慕情」は世間に出ることはなく流しのレパートリーの1曲で終わってしまっていた可能性があると思うと改めてチャンスを掴むことは大切だと思いました。
また、作詞作曲能力があって竜鉄也さんにしか描けない世界を書いたとも言えます。オリジナリティーがとても大切でその人にしか書けない世界というのはあまりヒットするケースは多くないのですが、きっと歌声や竜鉄也の立ち姿が聞く人の心を打ったのでしょう。
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