歌手若原一郎の死因と歌手とのしての評価。代表曲「おーい中村君」「港のおりくさん」の誕生秘話は?
出典:[amazon]決定版 2020 若原一郎
歌手として昭和の時代に活躍した若原一郎さんを色々な角度から掘り下げて行きます。
目次
プロフィール
- 芸名 若原 一郎(本名 田野倉 仲義 )
- 生年月日 1931年8月1日
- 出身地 神奈川県 横浜市
- カテゴリー 歌手、タレント
- 活動期間 1948年~1988年
- 所属レコード会社 キングレコード
死因と歌手とのしての評価。代表曲「おーい中村君」「港のおりくさん」の誕生秘話は?
死因については90年、肝臓癌のため58歳で他界しました。病がガンである事は本人は知らないままだったとされています。医療が発達した現在でもかなりのガンが早期発見であれば根治を目指せるとされています。
しかしながら、がんと聞くと人生の期限を切られたと覚悟を決める人もいるほどです。また、告知することで自死を考える人もいるほどです。告知するか否かについてはその人の性格を見極める必要性があります。
若原一郎さんの場合は知らなかったということなので、ある意味では良かったような悪かったような感じでは無いかと思います。これについては告知しなかったことを後悔したり納得したりしていると聞いた事があるほどです。
歌手としてはデビュー当時から歌の上手さには、定評がありましたが売れませんでした。その期間は実に10年間を数えました。しかし、苦労は報われて後に紹介する『おーい中村君』のヒットで歌手としての成功を手にしました。
その後、自身の曲でのヒット曲は出なかった物の、先輩歌手の岡晴夫さんのヒット曲を歌い継ぎ、懐メロブームが到来し再び脚光を浴びるなどまさに捨てる神あれば拾う神ありという芸能人生であったと言えます。
また歌手としてだけではなく、バラエティー番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』に出演し、様々な世代にも人気を得ることが出来ました。歌手として紅白に5回出場。また、アデランスのCMキャラクターを長年勤めていたこともありました。
ここからは若原一郎さんの楽曲「おーい中村君」「港のおりくさん」について書いて行きます。同名タイトルの映画で若原一郎さんも出演していました。作詞、矢野亮、作曲、中野忠晴のコンビで製作されました。
若原一郎さんはこの曲がヒットするまで10年の時間を要しており、やっとヒット曲に恵まれたという事で、遅めのブレイクと言う事になります。最近は大ブレイクするのに10年ほど掛る人もいれば直ぐにブレイクする人もいます。
ノリの良い、新婚の中村君に一杯付き合えって感じの歌です。昭和の時代だから有り得る歌の背景だと言えます。今のご時世だと同僚同士で呑みに行くことも憚られますが、この当時は飲みニュケーションが当り前の時代で一緒に飲んでいるから仕事も円滑に回るみたいなところがありました。
映画のストーリーは3人の中村性の男性達が織りなす、サラリーマン喜劇、出演も川崎敬三、白い巨塔でお馴染みの田宮二郎、船越英一郎の父親船越英二さんなどが出演していました。映画の時間は44分と短いです。
今の1時間のテレビドラマサイズですね。当時はフイルムを使って撮影したためそんなに時間を取ることが出来なかったのかもしれません。
「港のおりくさん」作詞、伊藤岸子、作曲、渡久地政信のコンビで製作されて若原一郎さんの昭和30年代のヒット曲です。具体的なセールスデータなどはありませんでした。今後新たな事実が出てくる可能性もあります。
まとめ
今回は、若原一郎さんを掘り下げてきましたが、歌手としては歌が上手かったにも関わらず売れるのに時間が掛かったという事でしたが、後から売れた方がその後長続きしそうなイメージがあります。
デビュー当時から売れてしまうと、売れなくなったときにもう一度這い上がるのは至難の業と言えます。また、若原一郎さんは歌手としてブレイクした後自身の曲ではヒット曲に恵まれませんでしたが、先輩歌手の歌を歌い継ぐことやバラエティー番組に出演することでタレントとしてもブレイクした芸能人として恵まれた人と言えます。
今後色々な事実がまだ出てくる可能性があります。
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