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渡辺はま子の死因と歌手としての評価。家族は?「蘇州夜曲」「愛国の花」の誕生秘話は?

出典:[amazon]渡辺はま子全曲集 シナの夜

昭和の戦時中、戦後に活躍した歌手の渡辺はま子さんを掘り下げて行きます。

プロフィール

  • 氏名 渡辺はま子
  • 生年月日 1910年10月27日
  • カテゴリー 歌手、女優
  • 活動期間 1933年~1989年
  • 所属レコード会社 日本コロムビア

死因と歌手としての評価。家族は?「蘇州夜曲」「愛国の花」の誕生秘話は?

死因については、触れられていません。晩年は脳梗塞と認知症の影響で寝たきりの生活をしており葬儀も密葬で済ませたと言う事で、訃報についても所属レコード会社から発表されただけでした。また、平成元年に歌手を引退しておりその後の生活を知る人は限られて居ました。

歌手としての評価については、戦時中の混乱期を歌で支えた一人と言えます。学歴も現在でも入学が難しいとされている武蔵野音楽大学を卒業しており、音楽的才能には長けていたと考えて間違いありません。

また『忘れちゃいやヨ』のレコーディングの際、ネェの部分を繰り返し歌うように言われ本人もいやいや歌いました。その後、早稲田大学の野球部応援歌発表会で歌ったところ大受けしこのままレコード発売に踏切れば売れるかもしれないとレコード会社も期待を膨らませていました。

しかし、ネェの部分がエロを満喫させるという理由で政府から発売中止のお達しが下りステージでも歌う事が許されませんでした。その後、タイトルは「月が鏡であったなら」に変更し歌詞を一部変更し発売しヒットしました。

レコードの発売中止の基準はとても曖昧で、時代によって変化する物なので現在普通にバラエティー番組やサブスクなどで聞けている物も時代環境で変化しているのでそのうち放送禁止になる可能性があります。

渡辺はま子さんの話に戻すと、戦時中は慰問に訪れて1年間捕虜として過ごした経験を持っており、戦後も歌手として活動し紅白にも9回出場しています。また、歌手以外の仕事として歌を通して外交官的な仕事をしていました。

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フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲『あゝモンテンルパ』のレコード化、日本の厚生省と渡辺はま子さんの奔走でモンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートが実現とフィリピン政府に対して、減刑と釈放を訴えかけ釈放を実現させました。

恐らく現在の学校の歴史の授業でもこの辺のことは、触れられる事は無いと思いますが、これだけのことを一歌手がやったと考えると凄いことをやってのけたと考えて良いと思います。

歌の上手さは勿論、外交家が出来ないところを歌の力を借りて動き、日本人戦犯の解放に尽力したことはもっと評価されても良いほどです。ここからは、家族について書いていきます。長女が一人居るようですが、それ以外の情報は出て来ませんでした。

渡辺はま子さん自身は、1947年に結婚していますが、誰と結婚したのか?相手はどんな人だったか子供が何人居るのかと言う詳細情報はありませんでした。現時点で明らかになっているのは長女が居たと言う事だけでした。

さてここからは渡辺はま子さんの楽曲「蘇州夜曲」「愛国の花」について書いていきます。「蘇州夜曲」は、「支那の夜」という映画の劇中歌として制作されており、日本の昭和の音楽の父服部良一さんの作曲、西條八十作詞で製作されて李香蘭が歌う事を前提に製作されました。

1940年、渡辺はま子さんの歌唱のレコードが発売されました。後に李香蘭が歌唱したレコードも1960年に発売され、後にASKAや桑田佳祐、小田和正さんなどにもカバーされています。

「愛国の花」は、ラジオの国民歌謡曲として作られ後の1942年に同名の映画の主題歌として作られました。映画が先では無く歌が売れたことで映画が制作されたという順番です。作詞、福田正夫、作曲、古関裕而のコンビで作られました。

まとめ

今回、渡辺はま子さんを掘下げてきましたが、働きかけによって日本歴史が動いたと言うことがあったというのはこの記事を書くまで知りませんでしたし、恐らく殆ど報道されたことはなかったのでは無いかと思います。

今後、もっと色々な歴史的に重要なことがクローズアップされると良いなと考えてしまいます。

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