霧島昇の歌手としての評価と死因。奥さんは?代表曲「三百六十五夜」「誰か故郷を想わざる」の誕生秘話は?
出典:[amazon]全曲集
戦前戦後の混乱期に歌手として活動した霧島昇さんを色々な角度から掘り下げていきます。
目次
プロフィール
- 芸名 霧島昇 (本名 坂本 榮吾 )
- 生年月日 1914年6月27日
- 出身地 福島県双葉郡大久村
- カテゴリー 歌手
- 活動期間 1937年~1984年
歌手としての評価と死因。奥さんは?代表曲「三百六十五夜」「誰か故郷を想わざる」の誕生秘話は?
死因については腎不全で死去。1984年の出来事で69歳でした。また、生前はヒロポンと呼ばれる精力剤を打っており健康状態は良くなかったのではないかといわれています。ちなみにヒロポンはのちに使用禁止となりましたがそれまでは薬局で売られていました。
昔の芸能人ほどヒロポンを常用していたという話があるほどで、体に与える影響は大きいのに疲れが吹っ飛ぶということで使用され、戦後の混乱期の話です。歌手としての評価は歌声が甘く独特な発声法を持っていました。
また、のちに奥さんとなる松原操さんとレコーディングした映画『愛染かつら』の主題歌となった『旅の夜風』がヒットしました。当時、霧島昇さんは新人歌手でしたが、120万枚の売り上げを記録しヒット曲となりました。
その後、数多くのヒット曲を飛ばしコロムビアのドル箱といわれる存在となりました。昔はヒット歌手になると1年に数十枚のレコードをリリースしていましたが、霧島昇さんも1937年の一年間で34枚の作品をリリースしていました。
現在のようにサブスクやダウンロード販売できるようになった現代なら、レコーディングしてリリースするまでの時間が相当短縮されているので、年間数枚出すことは可能ですがそれでも年間35枚も一人の歌手が出すなんてやはり考えられません。
物資もない時代によくそんなにたくさんレコーディングすることが出来たことに驚きを感じてしまいます。いくらコロムビアのドル箱といわれているからと言ってやり過ぎということは否めません。
戦争にも行っており終戦後も相変わらずの好調ぶりでヒット曲を量産しました。また紅白歌合戦に5回出場しており活躍しましたが、国からの賞などは受けていません。戦前戦後の混乱期に聴衆に勇気を与えた歌手の一人といえるでしょう。
奥さんについては上記にも触れましたが、松原操さんは歌手として活動しておりミスコロムビアといわれた伝説の歌手でした。結婚後は4人の子供を設け夫の死から2か月後に後を追うようになくなったおしどり夫婦エピソードがあります。
三女の大滝てる子さんは二代目松原操として、母の曲を歌い継いでいます。ソプラノ歌手として活動しておりコンサート活動もしていましたが、現在の活動状況は判りませんが過去にはインタビューを受けていますので検索してみてください。
ここからは、霧島昇さんの楽曲「三百六十五夜」「誰か故郷を想わざる」について書いていきます。
「三百六十五夜」作詞、西條八十、作曲、古賀政男
奥さんである松原操さんとのデュエットソングです。あの夜初めてあった人が今は愛する人になったというラブソングと解釈しました。アレンジ的には大抵生バンドでアレンジパターンも概ね一緒というところが否めません。
昔は曲のかっこよさよりも歌手の歌を聞かせるということに趣を置いたのかもしれません。
「誰か故郷を想わざる」作詞、西條八十、作曲、古賀政男
ノリのいいイントロで始まり、戦争の地から故郷を思って歌っているのかというように解釈しました。この年35曲の楽曲をリリースしていますのでどの曲がどれぐらい売れたかというセールスデータなどはありません。
しかし、売れるというのはすごいことだと思いますし、今も昔も人ではなく売れるというお金に群がるということは変わりがないということが判ります。
まとめ
今回は霧島昇さんを掘り下げてきましたが、戦後戦前の混乱期に日本に活力を与え続けた歌手ということはよくわかりました。歌声は確かに甘い感じでしっかりとピッチが安定していると思いました。
また、おしどり夫婦で夫死去の2か月後になくなる奥さんという構図は理想的だなと感じてしまいました。
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